『土佐日記』 を理解するにはコツがいる。
ひとつ目は、平安前期には、まだ「かな文字文芸」が認められていなかったため、
紀貫之はギャグを連発し、茶番劇を装ってリリースしたということ。
これが分かっていないと、冒頭から読み間違う。
「おとこの人も書くトカ聞いてる(かな書きの)日記というものを(ゲラゲラ)
おんなも、やってみようと思って、やるんだよ(ゲラゲラ)」
この書き出しの構想には、ずいぶん苦労したと思う。
普通なら男子たるものが、日記を仮名書きで書くというだけで眉をひそめられた時代である。
どうしたら、批判をかわして受け入れられるのか。
貫之は、ギャグを使うことにした。
そして、成功するのである。
「古今集の編集長は、お笑い系の人だったんだ〜」
はじめは、それだけの認識しか、なされなかったかも知れない。
だが貫之の英断は、のちの「蜻蛉日記」や「和泉式部日記」を生む土壌を作っていくことになる。
二つ目は、ギャグ日記の体裁を取りながらも、『土佐日記』の中軸を成しているのは、
出張先の土佐で亡くした女児を想う気持ちだという事。
当時の常識では、男が書くべき内容ではない。
この無常観は、のちに「もののあはれ」となって『源氏物語』で大輪となって花開く。
さて、本文を少し読んでみよう。
「それの年の師走のはつか余り、ひとひの日の戌の時(夜の8時)に門出す」
出発したのは、夜8時、オカシイと思った人は気が利いている。
電灯もなく、夜行バスもないのに、何が悲しくて冬の夜に出発しなければなかっったのか?
そう、これは「方違へ」(かたたがえ)といって、出先が不吉な方角に当たる場合、
仮の宿で一泊して方角を変え、あらためて朝に出発しなおす当時の習わしだ。
たいがいは、近場の女ともだちの家に泊まった。
「・・・はつかあまりふつか、和泉の国までと、平らかに願立つ」
旅の無事を神様に祈願しているんだが、通過点の和泉の国までしかしていない。
これは神様には、もともと「なわばり」があって、海の神・安産の神・受験の神と、
用途に合わせて別々に祈願するという理由から。
「藤原のときざね、船路なれど、むまのはなむけす(ゲラゲラ)」
船旅で、馬に乗らないのに、馬の鼻向け(餞別)をしてくれた、というオヤジギャグ。
これから沢山でてくるギャグにとらわれると、土佐日記の本質を見失うぞ。
「・・・潮海のほとりにて、あざれあへり(ゲラゲラ)」
「あざる」は掛詞で、「ふざける」と「腐る」の意味がある。
「海のほとりで、(防腐剤の塩があるのに)腐って、ふざけあっている」と訳せばいい。
短い冒頭の文だけでも、当時のしきたりや貴族の暮らしがよく分かる。
古典を読むには、知識だけではダメで、想像力がものを言う。
誰かが転勤するとなると、知らない人までやって来て大騒ぎする。
上流貴族(大臣クラスと中納言まで)
中流貴族(大弁・中弁・少弁と少納言まで) 読み方は各自工夫して読んでくれ。
ちなみに中弁は「ちゅうべん」と読む。
ココまでが「殿上の間」(でんじょうのま・天皇のリビングルーム)に入れる貴族だ。
ついでに言っておくが『枕草子』を書いた「清少納言」の位は「少納言」ではない。
「少納言をしている清さんの奥さん」という意味で「清・少納言」と呼ばれていただけだ。
当時の女性の呼び名は、そんなものだった。
下級貴族とは六位以下で、殿上の間に上がれない連中のこと。
蔵人(くろうど)だけは、天皇の付き人係りなので、例外的に殿上人だが、
「あやし」「いやし」「いふかいなし」の下衆の者といわれるのが、このクラス。
これら身分の上中下すべての者が酔っ払って、じゃれあい、まことに見苦しい送別会をしたわけだ。
まあ、古今東西の貴族(金と権力を持った俗人)は、みな似たような行動をする。
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文法上のポイント
助動詞には、ふたつの「なり」があって、よくテストで問われる。
「男もすなる」・・・伝聞・推定の「なり」と、
「してみむとてするなり」・・・断定の「なり」だ。
見分け方は、上にある言葉でする。
どちらもサ変動詞の「す」が上にあるけども、
終止形の「す」の下には伝聞・推定の「なり」が来る。
連体形の「する」の下には断定の「なり」が来る。
覚え方は、「終・伝・ナリ」と「体・断・ナリ」と暗記すればいい。
ただし、ラ変動詞の連体形が上に来たときは例外で、
伝聞・推定の「なり」になる事も、余裕があれば覚えておこう。
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