
万里の長城を作った秦の始皇帝は、「北斗の拳」でいえば、
ラオウのような恐怖政治で中国全土を支配した人物だった。
人民を治めるために、人民が震えあがるような刑罰を行使した。
書物は焼き払う法律を作り、政治に口出しする460余人の学者を生き埋めにした。
その始皇帝の天下は、あっけなく終わり、
次に天下を取る者の攻防が繰り広げられていた時代に出た二人のヒーローが項羽と劉邦だ。
西洋では、ローマ帝国がマケドニアやカルタゴと激しく争っていた紀元前の物語である。
大本命は楚の国の項羽であった。
劉邦は、離れた2番手でしかなかった。
「鴻門の会」の時の軍勢は、項羽軍40万に対し、劉邦軍は10万。
ところが、様々な「運」だとか「二人の性格」が絡み合い、
まるで、天が項羽を退け、劉邦を選んだような結末になっていくのである。
さて、始皇帝亡き後の秦国を制圧するには、
函谷関(かんこくいかん・軍事上の重要な関所)を占領する必要があった。
項羽より先に、函谷関を占領してしまった劉邦は内部の裏切り者(曹無傷)に
「劉邦は、関中の王になるつもりだ」と讒言される。
怒った項羽は、劉邦の軍を撃とうとする。
そこで、劉邦の参謀(戦の作戦を作る人)である張良(中国史上最高の天才軍師)は、
「劉邦は、関中に乗り込んで、項羽将軍をお待ちしていたのです。
函谷関を守備させたのは、他の盗人の出入りを防ぐためでした。」
という仲直りの飲み会を企画した。
これが「鴻門の会」だ。
項羽の参謀であった范増(はんぞう・亜父とは父に次ぐほど尊敬に値する人の意)とて天才である。
張良の作戦も劉邦の資質も見抜き、宴会の席で劉邦を殺してしまえと項羽に三度合図するが
まぁ、いいではないかと、余裕しゃくしゃくの項羽は応じない!
そうこうしているうちに、劉邦のボディーガード樊噲(はんかい)はやって来るし、
肝心の劉邦は、便所に行くと言って席を立ち、そのまま無事に帰ってしまった(これも張良の作戦)

なぜ、「鴻門の会」が重要な出来事なのかといえば、
ここに二人の運命を左右する予兆が書かれているからだ。
簡単に言えば、項羽は自分の力を過信しすぎた。
それに対して劉邦は、情けないと思えるくらい張良の案に従う。
「自分を過信した人間」と「衆知を集めた人間」の差を、史記の著者・司馬遷は克明に語っていく。
劉邦が帰ってしまった後、范増は怒りをあらわにして、
おきみやげの玉斗(酒をすくう杓子)を剣で突き割り、
「ええい、青二才め。いっしょにやっておれんわ!・・・わしらは、やがて奴の捕虜になるだろう」と吐き捨てた。
剣舞をした項荘の失敗を、なじるかたちで項羽を非難したセリフと言われている。
范増は、こののち、項羽のもとを去る。
後に「四面楚歌」の舞台になる垓下に立てこもった時には、
項羽の軍は、わずか11万だけになってしまうのである。
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